| 1・.中世の六浦・金沢地域の地形 | 平潟湾模型写真 |
- 平潟湾埋め立てが進む前の金沢八景
- 右端の突端が野島。内海の中北側にあるのは、泥亀新田になる地域。
- 真ん中の橋が瀬戸橋でその南側が平潟湾となる。
- 平潟湾西側が六浦湊で鎌倉時代の物流拠点として重要な位置を占めている。現在は埋め立てられて柳町となり、昔の面影はない。先生の自宅はこのなかにある。
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| 2・.鎌倉幕府、朝比奈切通しを開く | 朝比奈切通し(広重画) |
- 北条泰時が1241年切り開く
- 鎌倉幕府の人口は5万〜10万となり生活物資や武器が必要となった。
- 鎌倉の海は砂浜で港には不向きであったため、材木座海岸の東端に和賀江島を築港したが接岸が難しく幕府はこの港を放棄した。現在、この石積みの跡が残されている。
- 六浦湊から鎌倉への物資の搬入は急務であった。
- この切通しは朝比奈三郎が一夜で切り開いたという伝説。
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| 3・鎌倉の外港として栄えた平潟湾 | 唐船図 |
- 六浦の三艘という場所は、外国の大型船が停泊した船着き場であった。
- 中国船はネズミの害を防ぐため猫を乗せていた。この「唐猫」は金沢に住み着いて繁殖し「金沢猫」として珍重された。
- 三艘浦には「象」を乗せた唐船の伝えもある。この地区には屋号を「象ヶ谷」と呼ぶ家があり、近くに「象ヶ谷橋」もかかっている。
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| 4・塩は金沢の主要産業 | 洲崎晴嵐 |
- 鎌倉の生活に取って欠かせない塩の需要は高まり、金沢の製塩は地の利を生かした主要な産業となった。
- 金沢の入り海に面した釜利谷、町屋、六浦、野島など殆どの村に塩焼き場があり、広重の版画にはいくつも登場する。
- 明治38年塩の専売化により、金沢の製塩は整理の対象となり600年の歴史を閉じた。
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| 5・能見堂は金沢八景根元の地 | 筆捨の松 |
- 江戸時代には、ここから見る金沢八景の景観が最高で「金沢八景根元地」の石碑が立つ。
- 名前は中国の心越禅師が故国西湖の瀟相八景に当てはめ金沢八景詩を詠み、これが「金沢八景」の名の基となった。
- 最も繁盛したのは天明(1781〜84)の頃といわれ、三星亭という茶屋を中心にした賑わいが江戸名所図会等で描かれている。
- 伝説の「筆捨の松」は大正6年の台風で枯れてしまった。
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| 6・観光客誘致に貢献した文人や画家たち | 金沢八景 |
- 吾妻鏡には将軍頼経が六浦に一泊したことが描かれている。
- 1614年「名所和歌物語」(三浦浄心著)に初めて八景が登場するが、場所が特定されていない。
- 心越禅師が現在の金沢八景の地名を冠して命名。
- 歌川広重は金沢八景の浮世絵を何度も出版している。
- 八景の名前は各所で使われたが、本家は近江八景と云われている。
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| 7・人気の高かった観光地・金沢 | 東屋の写真 |
- 江戸文化の爛熟期と云われた文化・文政の頃、江戸市民の生活も安定し社寺参拝や物見遊山が流行する。
- 金沢八景は大山詣のコースで、江戸から大山に詣で、江ノ島、鎌倉をまわって最後に「精進落とし」の場所として、金沢八景で遊んで行った。
- 金沢八景の瀬戸橋周辺には東屋や千代本等が軒を並べていた。
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| 8・旅亭「東屋」で、活け魚料理を満喫 | 東屋の賑わい |
- 天保7年(1836年)に刊行された「江戸名所図会」に東屋の賑わいを描いた図があり、取れたての魚を料理して、それを活き作りにして宴会をしている情景が生き生きと描かれている。
- びわ島天社の側に「金沢総宜楼に題す」という佐羽淡斎の詩碑。
- 「金沢は風光もいいが、人情もいい、江戸では味わえない生魚料理が豪勢に並んでいる。香りのいい地酒も格別だ。おまけに酌もいいので同行の仲間たちと大いに飲み、したたかに酔ってしまった−−−」
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参加者の感想は資料の豊富さとそれをスライドにした説明をお聞きして、金沢八景の歴史を良く理解したようです。講演会の継続を望む人も多いので、次の機会を持ちたいと思います。
講演会の記録としては、楠山先生のホームページのダイジェストになってしまいました。申し訳ありません。