並木コミュニティカレッジ2006年度第4回


テーマ:「富岡の故事を知る」


主催:特定非営利活動法人らしく並木
共催:並木コミュニティハウス
講師:酒井宣子氏(郷土史研究家)
日時:2月4日(日)14:00〜16:00
場所:並木コミュニティハウス
参加人数:36名

2006年度最後の並木コミュニティカレッジ歴史講座を表題のタイトルで開催しました。
講師は郷土史研究家の酒井宣子先生です。今回は富岡村の仲通りに点在する持明院、宝珠院、悟心寺、二松庵をめぐる話題を中心にお話を聞きました。
ここに転居してきたのは、応長年間の長浜の大津波が原因らしいということですが、とにかく文献が少ないため、講師も本当の理由を確定することが難しいようです。
各寺院が持つ、檀家の関係とか、蔵を持つ大きな屋敷にある古文書の謎とか、さまざまな話題を提供していただきました。
しかし、土地勘のない人には場所を特定するのが難しく、もう少し精度の高い地図を提供すべきと反省しました。それ以上に現地を見ながら体験したい、という声も多く、次にはそのような企画も検討することにしました。



講師のお話


自己紹介(講師の酒井先生)

金澤シティガイド協会のメンバーで、県立金沢文庫の解説員であり、生涯学習「しおさい」のスタッフでもある。教師の時代には大道小、金沢小に勤務していた。
実家は称名寺から文庫小学校に行く途中にある。
現在は富岡西に居住していて、金沢区全域が自分に関わっている。

富岡の歴史の特徴

富岡に関する文書がない。古老から聞く話が中心になるが、文書がないので証拠がない。掲示してある古地図は12年前に歩きながら作った。 本日の話は富岡東地区がテーマになる。

持明院

このお寺の話になると鎌倉時代応長元年(1311)の長浜の大津波が話題になるが、このことを証明する文書がない。
仲通りと呼ばれている、富岡の中心道路から少し入ったところに石崎さんの家があり、昭和11年にささ葺の屋根を新しくする時に、長浜縁起和讃という古文書が発見された。この文書には長浜観音のご利益が記載されていて、大津波の証拠となる。現在この資料は県立金沢文庫に保管されている。内容はかねざわ物語に和讃の内容が掲載されている。
持明院は龍ケ寺の末寺で真言宗御室派である。本尊は大日如来。また、行基作といわれる薬師如来があり、昔薬師堂があり、病人のお参りが絶えなかったという。1月8〜12日までご開帳される。
長浜千軒が流された応長の大津波のときに、富岡の山に逃げてきたと推測される。
持明院の裏山は甚五郎山という山であったが、寺院により殆ど墓地として開発された。持明院の横の道を墓地伝いに行くと谷戸坂の辻があり、地蔵菩薩がある。東にゆくと長昌寺に行く道があり、西に行くと鎌倉街道になり、磯子、氷取沢に行く。また、この坂道を「おっこし」と呼ぶ。元々寺は頂上にあり、タブの大木の下に開山源基の墓がある。この近くに野本家の大きな墓があり、持明院の入り口の左手に大きな門がある野本家があり、この寺とのつながりを感じさせる。

(持明院の写真)
野本十左衛門は(丸十)の屋号を持っていて、多くの土地を所有している人であったがが、ある日持明院の横にある池の中に聖天様が沈んでいる夢をみて、池の中から聖天様が見つかり、聖天堂を祭られ、9月20日にお祭りがある。16号線に沿いの、かって井上馨が住んでいた駐車場、以前金港組合という銀行(信用金庫?だったと思いますが)があった16号沿いの本屋の隣の駐車場に持っていた。
富岡の寺は檀家寺で野本、岡本の墓が多いし、家紋を同じである。岡本の家は氷取沢にも多い。初代の漁業組合の理事長となった金子賢次郎の大きな家があるが、氷取沢にも金子家が多い。やはり長浜の大津波に関係がありそうだ。
現在の消防の器具置き場の場所に阿弥陀堂があり、昭和6年には富岡学舎として利用していた。現在堂の前という名称からもそれが証明される。この付近のスナックの下には谷戸から流れてくる水の音がしていて、16号を超えて海へつながっていた。16号を超えてすぐに野本佐久左衛門の大きな家を超えた場所に河岸の浜があり、その先に薪河岸があり、船で薪を運搬していた。
日向山(ヨマキと呼ばれていた)は造成されて現在シーサイドコーポになっているが、その掘削した土でとみおか団地の基礎が出来た。その当時は海苔干し場になっていて、富岡幼稚園の運動会が行われていた。
日向山には金子家、通りの後ろの方にある石崎家はここに墓地があり、地図には墓参りに行くための通路が描かれている。しかし、この土地が処分されたため、両家とも氷取沢の宝勝寺に移転した。津波は当然日向山に到達していて山の一部が崩されている。並木は現在のゴミ焼却場まで広がっていたと推測される。
江戸時代旧久良岐郡を中心に34箇所の観音巡りが行われた。称名寺が最初の3番で33,34の最後は結願寺(持明院)であったが、観音信仰には聖観音があるべきなのに、この寺にはなかった。この理由は1852年(嘉永5年)にこの村に耐火があり、その際に聖観音は焼けてしまった、と推測される。
このように鎌倉街道は山を越えながらそうとう賑わったと思われる。
また、里見軍の盗賊行為に対処するため、山の中に銭甕をつくったり、三田という場所には小屋場がある。富岡の人は上中里に農地を持っていて、山道は物資を運ぶであり、巡礼者の通る道でもあった。保土ヶ谷には芋神様へ向かう道標もあり、富岡はこの辺の中心であり、大地主であり、港を利用して東京に物資を輸送して栄えたようだ。
繁栄は5つの蔵があることでよくわかるが、仲通に面した吉川家がよく目立つ。その他大会社の別荘が並んでいた。
岩沢家(屋号:ネガタ)大きな地主であるが、この家には塚があり、これを開けるとバチが当たるといわれている。さらにこの上には持明院の経塚がある。
石崎八左衛門は漁師で丸八という船を持っていた。
長浜の大津波

この津波では長浜観音だけが流されて、住民では死んだ人があまりいなかった。37年後小柴の海で観音様が漁師の網にかかった。
人の命を助けた身代わり地蔵として、信仰があつく、称名寺の山門の付近に地蔵堂を建立した。その後称名寺の八角堂に観音様が移された。しかし、戦争時には山に登れないことになり、称名寺に移された。海中出現観音として小柴の人は信仰が篤く山越えをしてお参りにきたという。

伍心寺

奥の岩沢家の隣に長谷川(元の前田屋)と田辺の二つの墓がある。しかし、長谷川さんに聞くと墓地は長昌寺にあるという。この理由は隣接する伍心寺のとなりに西源禅庵という尼寺があったが、明治37年に長昌寺に合併したことにより、長谷川家の墓地も移動したためと考えられる。
(伍心寺の写真)
伍心寺は建長寺の末寺本尊は地蔵菩薩である。
地蔵菩薩は鎌倉時代後期の法衣垂下形式で丈高の装飾的台座で、建長寺仏殿本尊の地蔵菩薩坐像と同じ様式でわずかな期間に造立された。
脇佛として閻魔大王、眷属十王像、奪衣婆(死者を裸にする役目)がある。建長寺は処刑の場であったが、斉田地蔵という斉田氏の身代わりになった仏像が建長寺仏殿本尊の頭部内におさめられている。主な檀家は斉田家で氏神の御諏訪様が祀られていたが戦時中に消滅した。伍心寺の境内には五輪塔、宝筐印塔ととみに地蔵菩薩が建立されている。

吉川家

仲通りに立派な蔵がある、吉川家にも謎が多い。屋号が(伯耆)であるから、山陰地方で毛利の分家である吉川家が想定される。この家には古文書があり、算用位取扱には米、麦、大豆の取引の内容が記載されている。
また、請負実物証には船を作っていることが記載されている。米を買い江戸に送り収益をあげたようで、州崎にも土地を持っている。
特にユニークなのは合衆国国書というぺリーの国書をしたものが残されているのが不思議である。小柴近くにやってきたペリーの船に接近した可能性もある。

宝珠院(右上の写真)

地蔵菩薩の持っている宝珠から命名されたようだ。豊島明重が慶珊寺と同時に建立した。
もともとこの二つの寺はつながっていたが、16号の開通で分断された。境内には樹齢270年の大銀杏がある。主な檀家は大菊家・斉田家でケンタバミの家紋が同じである。
現在「豊後」がある場所は豊島氏の陣屋の跡であり、藪御殿と呼ばれていた。

二松庵

(二松庵の写真)
日本画家川合玉堂は大正6年静かで環境の良い富岡の土地を好み、地元の庭師「植周」の大胡隆次に数奇屋造りの別邸と雑木を中心にした庭園を作らせた。この時代に書いた作品には「銃後の春」「長閑」「藤」「紅白梅」があり、庭園の中や近所の風俗を描いたもの。
昭和32年の出船は絶筆であるが、漁師が船を出す光景を描いているので、富岡のスケッチと推測される。毎月第一土曜日に公開されているが、若葉と紅葉の季節に訪れるとよい。

質疑応答

  • 質:長浜の大津波は他の地域にも影響を与えたと考えるがその痕跡はないか。
  • 答:資料がないので確認できていない。
  • 質:富岡には金持ちが多いようだが、その背景はなにか。
  • 答:これについても明確な資料がない。

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